| 陽山十五代 中里末太郎 |
![]() |
![]()
|
華麗絢燗たる平戸三川内焼は元和八年(1622)に高麗姥がその一子茂右工門を伴いて唐津領推の峠よりただ一人移り住み陶業を始めました日それ故に高麗姐と茂右エ門が平戸三川内焼の陶祖であり創始者であります。 平戸三川内焼の発祥の歴史的源は遠く四百年の昔豊公文禄の役に両民族が海洋をはさんで興亡をかけた激突征戦を源としています。不出世の英雄豊臣秀吉が痢癩玉を爆発させて侵椋を決意し大号令のもと怒濤の如き大軍を韓国に押し渡らせた。小西軍団の先陣し先功を立てた西海きっての水軍の武将で茶人であった松浦鎮信侯が慶長三年徳川家康の撤兵に際し彼処の多くの陶工達を伴帰り平戸島中野村字紙漉において候の命令にて陶業を起しました。これを中野焼と称します。 陶工達は中野において十数年問に亘り製陶を営んでいましたが良土がなかったので陶工達は各々中野を出て領内に良土を求めて転々と移り住み陶業を起しました。現在県北に点在する沢山の窯跡がそれを立証しています。 此の陶工達の中に高麗姥と称する女性が居た.彼女は現在の韓国慶尚南道鎮海市熊川面の生まれで熊山神堂の神官の娘で長じて神堂の巫女をつとめていた。従って美貌で教養高く育てられていた。性質豪気闊達にして大夫を凌の慨あり常に陶業を研究し怠ることなく同胞の面倒をよく見て指導統御して巫女の本領を発揮していたと史記されている。 彼女は中野に於いて中里茂右エ門に嫁し後に唐津領椎の峰に移り住むことになります。 慶長一八年(1612)彼女は一子に茂右エ門も襲名陶工、たらしめました。 元和八年(1622) 姥は一子茂右エ門を伴いて現在の地佐世保市三川内町前田の長葉山に転住して陶業をただ一人始めました。この年が平戸三川内焼の発祥創業の年であります。今から三百五十二年前であります。この時、姥五十六才茂右エ門は十六才であったと云。当時の製品は季朝風のものや黒流紬を使用したものであった。それより十数年を経過した後、三之丞は一子如猿を共に、鍋島領須古籾岡山より来り姐のもとに親の如く師事し協力したと史記されています。それより先に所々方々に転住していた陶工達も追い追と集来旦二之丞の如く蝿に協力したので三川内陶業地が形成された。たまたま陶工達は五月恒例の早岐港茶市を見物中物々交換に天草島から渡来した船が白色の砥石を売るのを見て驚き、これを持ち帰り粉砕し陶土となし苦心研究数年に及び針尾島産綱代長石を混合して焼成し白色透明珠の如き光沢を有する白磁器を製出に成功したのである。 窯から出した陶工達は欣声雀躍涙を流して喜んだ。その研究に数年間苦心惨胆したこと振返る時、現代的に者へでも真に数年の歳月を要したと推測されます。又その喜び方も筆で尽せない喜び方であったことも当然で、神武以来の出来ごとで日本白磁器製出の発祥地であり創始者となったのであります。 この事を松浦候に報告に及ぶと殊更に満悦で中里、今村の両家を城下に召して嘉賞の御言葉を賜り両家を士分に取立て二字帯刀を許され、沢山の下賜品と知行百石「100石取りの武士といえば馬廻りに相当し、藩士の中でも高い位に属する」馬廻役の墨付をいただき製造用に田畑山林百余丁歩[1丁歩=3000坪]を賜ったのである。御用窯即ち官窯となったのであります。候はその地に白磁器製造技術の漏洩を防ぐ為に三川内山に大官所を設置、官窯の形態を整へ陶工達の生活衣食住の安全を計る等強力なる保護育成策が敷かれました。 候は又それまでの意匠は李朝風のものであったので京師より狩野派の画家を招聰し、日本回的意匠を奨励しました。 三川内姥染付の日本回固有の意匠発祥の所以であり支那を模倣したものと異なり平戸染付が製出されました。 それ故に陶工等は何らの不安なく技術の向上練磨に没頭したので技術はいやが上にも向上した進歩発達した精巧な製品が製出山され三川内焼の真価を高めたのである。此の保護育成は明治維新まで代々の領主によって続けられたのである。この様にして作られた製品は松浦侯の参勤交替の折の皇室を始めとし幕府並に諸侯への土産品として使用配布されたので、その名声は一躍天下に宣伝されたのであります。 現在の三川内焼の名が振わないのは明治維新までは大名物のみ官窯的に製産L、庶民用を製造Lなかったためで、庶民には知れず婁上人のみに有名であった。 維新の変革に際し自由競争には温室育ちの三川内焼は他産地の後塵を拝する形で現在に至っています。しかしその伝統の歴史と技術は今猶継承されています。 三川内焼の優秀なことは現代で一部の人士には知られ愛顧されています。殊に彼の有名な世界的陶磁器の学者でゲンマアーク国コペンハーゲン市国立博物館長たりし故エミールハンノバァー博士はその著書世界陶磁全集極東部の中で平戸三川内焼について論じて曰く。 「一七五〇年から一八三〇年迄の間の日本国内の磁器界では平戸三川内焼が最高に優れていて、ミルクホワイトよりも白色で鍋島よりもブリリアントである、有田は云に及ばない」。 平戸三川内焼は長い間伝統の歴史の上に立ち,あらゆる技術の練磨向上に心身を傾注し広範な手工芸を身につけています。繊細華麗な筆緻と特殊な量の技法は他の追徒を許さない平戸染付を造り上げている。その繊細な技法で唐子絵が代表的である。製品には美術工芸品、茶器、酒品、食器等に及び、洋食器に至っている。浮上、手捻菊細工、透掘等の技工品に及んでいる。殊に陽山製の紙の如く卯殼の如き
手白磁は彼の支那のまぼろしの高価な古陶器「影青」をはるかに凌駕する。白磁器の製作技法は、
真に日本一だと賞される薄手白磁器があります。三川内は平戸領の南端に位置したが、旧幕時代文化は平戸を中継として、江戸京都、大阪と文化は交流したので時勢におくれることなく文化は高かった。今普門院のお寺の片隅にいつの頃に建てられたのか古い芭蕉翁の句碑が立っているのを見ても沢山の文化人が居たことを立証している。 「山里は万才おそし梅の花」 三川内焼の染付が優秀な技術を有することを実証した例をもうひとつ挙げます。 昭和三年秋の今上陛下御即位大礼に際し、陽山は宮内省から御饗宴用の御用食器の多量を全国の同業者と共に製作方を拝命し、同年九月三十旧京都二条城に於いて納入検査の結果宮内省大膳斎藤田勇八主膳官から同業者環視の中で陽山の製品が上出来で第一位で抜群の成績である。 皆々の者、以後御用品は陽山の様に製作せよと陽山は激賞されたのであります。そして同年十月二十三旧付第八十号を以て陽山を宮内省御用達を拝命する光栄に浴した事がいかに三川内の伝統技術が優秀であるかを立証しています。 薄手白磁については、昭和二二年G・H・Qの経済科学局部員ミスターデリユーは、名古屋市主催の全国陶業者大会の席上現在の日本陶磁について論じて曰く。「現代日本に於ける磁器の最優秀なるものは陽山の製品は日本でこれの右に出る品はない。」 それ故に長崎県は昭和四九年三月、陽山の薄手白磁に対して無形文化財と指定したのであります。 |
![]()
長崎県文化団体協議会 「文協 季刊 」へ投稿した記事があります。高さ80cm位の大きな花瓶です。ヨーロッパへ旅行した際、下花瓶の題材の大きな樹木に会い感動したそうです。この様な思いを大きな花瓶へ打ち込んだようです。
この思いを以下の巨大なる老樹の壷の由来の題名で私記を投稿しておりますので、陽山中里末太郎の人となりを知ることができるでしょう。
![]() |
染付大樹文花瓶 1983年(昭和58年) Vase with tree in underglaze blue 中里末太郎(陽山) NAKAZATO Suetaro (Yozan) 素材・技法:磁器 Porcelain 長崎県美術館所蔵 常設展示室 第2室 |
|
文協第36号
大昔に海の見える丘のいたたきに一粒の種子が音もなく芽生えました。その新芽に燦さんと降る太陽の光と熱と慈雨の助けを受けてすくすくと大きく育ち天に控え大空を覆うばかりの巨大なる老樹に成長しました。
それ程の老樹に成長するのには数千年の歳月がすぎました。この老樹は大自然の天変地変にはもとより大雪や猛風雨の嵐にも耐え忌んだ強靱なる生命力の持主でありますが又、それにもまして偉大なる幸運の持ち主であります。 その偉大なる幸運とは即ち森林や樹木を伐採して生存を続ける人類がいてこの老樹には神様 が寝られると信じ恐れをなして伐採を取りやめて、むしろ俣讃したという幸運に恵まれたので現在まで生き残られた偉大なる幸運であります.又、この老樹は元来が博愛と慈悲に富んだ慈善家であります。例えば山鳥や小さい動物に安全なるねぐらを提供して保護しそれら喜びさえずりがなでる自然の美しい音楽の演奏家ともなります。又は村雨や時雨の時は旅人のしばしの雨宿りとなり、又は村人達の野良仕事の昼食のひとときの食卓または雑談の憩いの場所ともなって社会に奉仕する篤志家であります。 老歴史家 この巨大なる老樹は芽生えましてから数千年に亘る人類社会の移り変わり行く時の流れを走馬燈の廻るが如くに眺めてきた老歴史家でもあります。それ人類の生存の歴史といえば一面弱肉強食の闘争の歴史であります。
なぜ人類の開争が起こるのか、又は起きたのかというと、その起こる原因は、神、即ち造物主のいたずらか。人類は生まれながらに背負された宿命的悲劇を持って生まれた.即ち人類は同一種でなく多種多様に分かれて生まれ各々相異った言語を持って生まれたので他民族との意志の疎通を欠くために起こる事件の解決を話し合いで解決出来ずに武力を用いる為に起こる闘争である。つきることなき闘争の繰り返しが弱丙強食の歴史となったのであります。 闘争と戦争 ひとたび戦争が起こるや各民族は民族の興亡をかけ全民族の死力を傾け尽くして戦った.洋の東西南北を問わず、バヒロンの昔からトロイ.カルタゴ,シルクロードの全世界で沢山の民族国家が興り消え去り跡かたもなく歴史の中にまぼろしとなっている。 戦場有様 戦争となるや陸といわず海も空も所きらわず荒れ狂う怒濁の如く激突また激突をくりかえして戦場はたちこむ戦塵硝煙弾雨の中、人馬いななき肩有相摩し剣先檜映するところ阿鼻叫喚たリ。累々たる屍出血河は酸昴凄惨極まりなき修羅八荒と化し乱魔の如き八大地獄を現出するのであります。遂に人類は人類破滅の最後の武器「原爆」を投下した。 平和乗る 悲毒極まる闘争も夕陽とともに、戦雲西に去って後には月光淡く涼風粛々と吹き渡るところ山河は寂蓼として語らず虫の声すらもなし.たた独。巨大なる老樹のかなしくたたずめる姿あるのみ。その老樹の顔やまた淋しい。平和が甦り人々は疲れはてて。とぼとぼと荒廃佳一土と化した国土に帰りついたけれど、何にもかもなし。ただ呆然とたたずめるのみ。失心しばし。これではならじと生気を取りもどした民族は敢然と国土に立ち再建に立ち上った。 槌の音、鍬の光、そして車が走った。そして徐々に全世界を相手に戦った民族の底力を取りもどして来た.それが吾が日本民族である。全世界の中で最も社会福祉の行き届き充実した国家に再建され全世界から羨望のまととなり諸物資は全世界から怒漏の如く集中する楽土となった。 今、日本の老人達は全世界の中で最も平和で繁栄と福祉に浸って喜々として幸福さながらである。このような社会の一とを仏陀は「弥勒の世」と言い、優最華の花咲く春に会うたる心地といいます。又、このような楽土を表現する曼陀羅は絹繍でつづられ、伝統の文化、芸術、美術に近代科学の粋を織ワなされたので絢欄燦然と服もくらむばかりに全世界に照りはえている様は正に百花蜆乱と咲き乱れている美しい極楽国家であり虫すき巨大なる老樹はこの楽土の様を眺めてさぞかし涙して喜び、この社会楽土が永遠にあれかしと祈っているのでありましょう。 以上が私が愚考した巨大なる老樹観でありますが、人生にも一」の強靭なる生命力と偉大なる幸運とがそのままあてはまることと思います.それ故に、このように貴い老樹をデザインした壼を製作しその壷が主家の永遠の平和と繁栄と偉大なる幸運のシンポルとならんことを祈念して試作いたしました。老樹の壼の由来といたします。 近年吾が国では荒廃する森林と、緑を守れ、の運動が盛んに叫ばれている時 昭和五十九年盛夏 愚考謹言 長崎県陶芸協会長 八十六老陶工 陽山中里末太郎 |
陽山中里末太郎が初めて銀座での個展を開催した時の資料がありましたので参考資料として記載します。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |